日本の歴史教科書は、なぜ責任を語らない物語としての批判を受けるのか?
日本の歴史の検定教科書は、世界の学者からしばしば、偏った国家保守的な見方を含んでいるとして非難されてきました。私自身も、教科書に頻出する「我が国」という表現や、出来事を淡々と時系列で並べる、分析を避けた語り口に、以前から違和感を覚えてきました。
それは単なる言葉遣いの問題ではなく、国家、戦争責任、そして歴史そのものをどう扱うのかという、より深い姿勢を反映しているように思えます。ここでは、日本の歴史教科書がどのような言語的・制度的枠組みのもとで、責任を曖昧にするナラティブを作り上げてきたのかを考えていきます。
1.教科書が作り出す「日本」という主体
日本の多くの歴史教科書の根底にあるのは、「日本」を文化的・民族的に統一された主体として捉える視点です。国家、軍指導部、一般国民のあいだに存在したはずの内部分裂や意見の相違、権力の非対称性はしばしば曖昧にされる一方で、歴史的苦悩や記憶の継承については強い一体感が強調されるという傾向が、戦後から現在にかけて度々批判の対象となりました。
こうして、切れ目のない国民的主体が生み出され、戦時中の侵略に対する責任は軽視、あるいは曖昧にされていきます。侵略は意図的な政策ではなく、必然性や状況、あるいは悲劇的な結果として再構成され、直接的な道徳的責任は回避されます。(Alexander Bukh, 2007, Japan's History Textbooks Debate: National Identity in Narratives of Victimhood and Victimization: 683-704)
2.被害者としての日本と「日本人論」
こうした教科書の語りは、戦後日本の国民的アイデンティティ形成とも深く結びついています。特に重要なのが、1970〜80年代に広く支持された「日本人論」との連続性です。
日本人論は、民族性や文化的本質といった非歴史的なカテゴリーに依拠しながら、均質で連続した日本のアイデンティティを本質主義的に描いてきました。単一民族主義的な解釈や「領土=人=文化=言語」という捉え方のもとで、日本は永続的で例外的な存在として提示されます(Julian Dierkes, 2010, Postwar History Education in Japan and the Germanys : Guilty Lessons: 123-174)。
政治よりも文化を前面に押し出すことで、この言説は、軍事的敗北、アメリカ軍による占領、帝国主義的暴力という現実から戦後日本を距離化しました。歴史的責任や現状に直接向き合わずに、日本に独自で、さらには優れた地位を保証する枠組みだったとも言えます。
教科書においても、この影響は顕著です。日本によるアジアでの戦時侵略行為は現在に至るまで矮小化され、天皇の戦争責任は曖昧にされ、日本の苦しみが前面に押し出される一方で、加害責任は周縁化されていきます。
(教科書での描写表現と玉音放送の言語表現を比べても面白いです。)
3.責任を消す言語――文法と語彙の選択
では、こうした物語は、具体的にどのような言語表現によって支えられているのでしょうか。
教科書では、文法上の選択によって主体性がしばしば曖昧にされます。「日本」ではなく「我が国」や「日本軍」が用いられ、行為の主体は分散されます。文は間接的になり、名詞化や主語の曖昧化によって、誰が何をしたのかが見えにくくなります。
たとえば、「日本は真珠湾を攻撃した」という構造ではなく、「日本の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が始まった」という表現が選ばれると、攻撃という行為は主節から外され、文の中心的メッセージではなくなります。これにより、開戦は政治的判断ではなく、自然現象のように不可避なものとして提示されます。敗北についても同様です。「降伏」や「敗北」という言葉よりも、「ポツダム宣言の受諾」「戦争の終結」といった婉曲表現が好まれます。
4.ABCD包囲陣という「安全な説明」
こうした曖昧さの典型が、「ABCD包囲陣」という表現です。日本が米英中蘭によって経済的に締め上げられ、自衛のために戦争をせざるを得なかったという自己保存論は、戦時中のプロパガンダと強い連続性を持っています。歴史的に見て、この主張は、特に日本が以前に中国を侵略していたことを考えると、説得力に欠けます。
教科書で多く見られるケースとしては、この概念が「いわゆるABCD包囲陣」として提示されます。「いわゆる」という語は、当時の人々がそう呼んでいたのか、著者自身が距離を取っているのか、その両方なのかを曖昧にします。結果として、著者は歴史的正確性に責任を負うことなく、この枠組みを再生産することが可能になります(Christopher Barnard, 2003, Language, Ideology and Japanese History Textbooks: 80-108)。このように、戦時下に使われていた表現がそのまま継承される場合も少なからずあります。
この語りでは、日本の被害記憶が強調されることで、侵略責任を相対化し、国と天皇の体裁を守る機能を果たしているともとれます。
5.制度が生み出す「書けなさ」
こうした言語選択は、個々の著者の判断だけで生まれるものではありません。多くの国において、歴史教科書は何らかの中央機関による検定や承認制度のもとで編まれており、日本の教科書記述も、そうした制度的枠組みの中で形作られています。文部科学省による検定制度は、その一例として、記述の範囲や表現の方向性に強い影響を及ぼしてきました。
歴史的出来事は、特に戦争や帝国の拡張に関して、その動機、目的、因果関係についての他国目線の議論を最小限に抑えた形で提示されます。授業数に限りがあり、内容を小学校、中学校、高校のレベルに保たなければいけない点も忘れてはなりませんが、こうした多様な解釈の回避は、批判的な評価や責任の帰属の機会を制限し、国家や象徴天皇の体裁を結果的に守る役割を果たしています。その結果、歴史物語は中立的で客観的なものに見える一方で、根底にある政治的・道徳的問題は、中央集権的な統制、自己検閲、そして制度への依存という複合的な影響によって、体系的に周縁化されています。出版社は検定制度に経済的に依存しており、著者は承認を得るために、指導要領に厳密に沿った、簡潔で無難な記述を選ばざるを得ません。その結果、分析や因果関係の掘り下げは、最初から制限されます。
この構造の中で、日本の検定教科書は事実を列挙する実証主義的な歴史学に傾き、戦争や帝国主義についての動機や責任の議論は避けられてきました。
6.自己検閲という文化
さらに重要なのが、明示的な禁止ではなく、自己検閲という形で機能する抑制です。出版社や著者は、検定却下のリスクだけでなく、世論の反発や政治的圧力も想定する必要があります。慰安婦問題がその典型です。法的な禁止がなくても、政治的圧力のもとで言及は減少しました。これは、日本において検閲が「命令」ではなく、「空気」や「安全判断」として内面化されていることを示しています。
この傾向は、日本のメンタリティに強く根差しているといえます。自己検閲そのものは、検閲が一般的に他の機関によって行われる、表現の統制や制限を示すのに対して、添削ないし議論の発端となりうる内容を制作側があらかじめ自ら阻止することによって、事が大きくなるのを避けることです。つまり、制裁や不利益を予期して明確な禁止なくして自ら特定の表現を控えるので、規制なくとも広まりうるという特徴を持っています。
現代の日本では、より広範なメディア環境がこの傾向を強めています。政府や企業による主流メディア経営陣への圧力は、政治的または社会的にデリケートなテーマに関する広範な自己検閲を促しています。ハンガリーのようなより公然と統制された体制とは異なり、日本のケースは、明確な検閲ではなく、社会規範、リスク回避、制度的依存を通じて制約が機能することが多いという点で特異です。
毎年、国境なき記者団(RSF - Reporters Sans Frontières)が公表しているデータで、世界報道自由度ランキングというものがあります。これは世界各国のメディアやその政治的な構造を独立性や透明性などの観点から評価するもので、毎年様々なメディアから注目を集めます。民主主義でないと一般的に判断される国々がランキングの下位に位置する中、興味深いことに、2025年5月に公表されたデータでは、日本は66位と、前例にならって先進国の中でも低水準を示しており、G7各国の中では最下位となっています。
日本においては、法的には報道や言論の自由が保障されている一方、文化的背景に基づいて社会的な同調圧力ないしいわゆる「空気」によって批判的言説が抑制されやすいと指摘されてきています(United Nations, Deutsche Welle)。
国境なき記者団は、これを次のように批評しています。
Since 2012 and the rise to power of the nationalist right, journalists have complained about a climate of distrust, even hostility, toward them. The system of kisha clubs (reporters’ clubs), which allows only established news organisations to access press conferences and senior officials, pushes reporters toward self-censorship and constitutes blatant discrimination against freelancers and foreign reporters.(2012年に右派ナショナリストが台頭して以降、ジャーナリストたちは自らに対する不信感、あるいは敵意さえ持つ風潮に不満を訴えてきた。記者クラブ制度は、既存の報道機関のみに記者会見や政府高官へのアクセスを認めており、記者たちに自己検閲を強いるうえに、フリーランサーや外国人記者に対する明白な差別を構築している。)
A vaguely worded regulation, enacted in 2021, will be applied in 2024, restricting the public’s access, including journalists, to 583 areas near defence facilities and infrastructure deemed of “interest to national security,” such as nuclear power plants and military bases. Violations will be punishable by up to two years in prison and/or a fine of up to 2 million yen (14,000 euros). The government also refuses to amend a law on the protection of specially designated secrets, which punishes the publication of information obtained “illegally” with up to ten years in prison.(2021年に制定された曖昧な表現の規制は2024年から適用されるが、これは原子力発電所や軍事基地など「国家安全保障上の関心事」とみなされる国防施設・インフラの近隣583地域への、ジャーナリストを含む一般市民の立ち入りを制限する。違反者は最長2年の懲役または200万円(1万4000ユーロ)以下の罰金、あるいはその両方が科せられる。政府はまた、「違法に」得られた情報の公表に最長10年の懲役刑を科す特定秘密保護法の改正も拒否している。)
In Japan, the government and corporations routinely exert pressure on the management of mainstream media, resulting in heavy self-censorship on topics that could be deemed sensitive, such as corruption, sexual harassment, health issues or pollution. Since 2020, the government has slashed the number of journalists invited to its press conferences, citing health measures linked to the pandemic, and has added public broadcaster NHK in the list of organisations required to follow its “instructions” in the event of a major national crisis.(日本では、政府や企業が主流メディアの経営陣に圧力をかけることが常態化しており、汚職、セクハラ、健康問題、汚染といったデリケートとみなされる話題について、深刻な自主検閲が行われている。2020年以降、政府はパンデミックに関連した健康対策を理由に、記者会見に招待するジャーナリストの数を大幅に削減し、大規模な国家危機発生時に政府の「指示」に従うよう義務付けられる組織のリストに公共放送局NHKを追加した。)
教科書制作においては、この文化的論理が、中立的で事実に基づいているように見えながら、論争を呼ぶような解釈を体系的に避けるナラティブを生み出します。このように、自己検閲は、歴史責任、国家の説明責任、そして問題への直接的な批判を煽る視点が周縁化される重要なメカニズムとなっています。それは、それらが正式に禁じられているからではなく、社会的、政治的、経済的に表現することが安全ではないと、各々の制作側によって認識されているからです。
7.国際比較が示すもの――日本とドイツ
ドイツの教科書では、侵略や敗北が国家の行為として明確に記述されます。主体は「ドイツ」であり、責任は文の中心に置かれます。一方、日本の教科書では、主体は軍隊や場所に移されることが多く、行為は文法的に格下げされます(Christopher Barnard, 2003, Language, Ideology and Japanese History Textbooks: 80-108)。
この違いは、単なる文体の差ではなく、説明責任をどう捉えるかという政治文化の違いを反映しています。例えば、侵略の責任を問うにあたり、ドイツの教科書は「ドイツ」をポーランド侵攻を開始した主体として明確に示し、侵略行為はしばしば主節に埋め込まれています。一方、日本の教科書は、しばしば主体を軍隊に移し、攻撃を文法的に格下げし、アメリカ合衆国という国家ではなく「真珠湾」という場所に焦点を当てることで、日本の責任を体系的に矮小化しているという解釈があります。このパターンが一貫していれば、文体上の慣習ではなく、一定のイデオロギーを示唆していると結論付けることができます。
こうした違いは、歴史学の伝統の相違に根ざしています。ドイツの歴史教育は1960年代に、ナチズムと戦時中の残虐行為に対する国民の支持に対峙する分析的・因果論的アプローチへと移行しました。一方、文部科学省による統制が強い日本の教科書は、因果分析を避ける側面があり、ABCD自己保存論といった戦時中のレトリックの要素を再現する実証主義的・時系列的な枠組みを維持しています。(Christopher Barnard, 2003, Language, Ideology and Japanese History Textbooks: 80-108)。日本のアジアにおける戦争犯罪はしばしばナチス・ドイツの戦争犯罪と比較されるものの、侵略と責任への言及はほぼなく、ドイツやより広範な国際的潮流とは異なる物語の軌跡を強めています。
おわりに――歴史教育は何を育てるのか
教科書における言辞操作は、日本だけの問題ではありません。しかし、時系列の事実ばかりが授業で重点化されたり、異なる解釈や対立の議論が焦点とならない姿勢は、致命的な欠陥をはらんでいると私は考えています。
教育に使われる教科書の言辞操作は、どの国においても繊細なテーマです。特定の民族や意見が無視された場合、国際レベルだけでなく国内レベルでも容易に有害となり得ます。したがって、語彙の選択や構成における編集者や教材の責任は過小評価されるべきではありません。同時に、教育は、次世代を育てる基盤である以上、国家主義の立場だけでなく、世界的な学術研究の中での傾向を取り入れた、国際的な視点も理解しなければなりません。複雑で困難な課題で、一語一句が重みを抱える上に、次世代の国内外への姿勢をつくりうる、かなり重要で影響力のある土台として、政治的、文化的操作や誘導を超えたものでなくてはなりません。歴史教育の役割は、国家の体裁を守ることではなく、複数の視点を理解し、議論し、責任について考える力を育てることにあるはずです。次の世代に必要なのは、出来事の暗記ではなく、聞き、考え、語る能力です。
現代社会は、かつてないほど大きな社会分断を引き起こす可能性を秘めています。インターネットが発達し、瞬く間に多くの人々に情報が共有されるようになりました。私たちは情報をフィルタリングし、同じ世界観を持つ人々とすぐに繋がることができます。しかし、その一方で、自分と異なる意見に触れる機会、つまりじっくりと腰を据えて反対意見に耳を傾ける機会を失っている可能性も否定できません。だからこそ、時系列の事実に注目し、異なる視点や解釈を議論する機会が充分に作られないのは、重大なリスクをはらんでいると私は考えています。これは近隣諸国ないし国内の差別を受けた人々との関係においても当てはまります。歴史の負の側面や過去の過ちに充分に言及せず、苦しんだ人々、そして今もなお苦しんでいる人々を犠牲にして、議論を怠れば過去の記憶は忘れ去られてしまう、と軽視するべきではありません。だからこそ、教育方法の考察が必要だと感じています。
歴史の授業から実際に利益を得る唯一の方法は、できるだけ事実に基づいた記述をすることも大前提にありますが、さらに重要なのは、できるだけ多くの解釈や視点を取り入れ、あらゆる分析について批判的な議論をすることです。将来の世代をただただ国家機構の一部として扱うべきではないことは、私たちは充分に理解しているべきです。後に続く世代には常に、今の私たちが知りえない新たな問題や社会の分裂が生まれます。彼らがそれらに立ち向かうために必要なのは、歴史的出来事の時系列ではなく、保守的な解釈に固執するのでもなく、耳を傾け、議論を正確に解釈し、自らの考えを表現し、包括的な解決策を見つけようとする能力だと私は思います。